ヴァーサ朝はバルト海沿岸に領土を拡大させ、グスタフ2世アドルフのころには身分制議会が置かれ、さらに重商主義政策を推進し、北アメリカのデラウェアに植民地を建設したほか(ニュースウェーデン)、各種産業を保護育成した。
グスタフ2世アドルフは「北方の獅子」とよばれ、デンマーク、ポーランド・リトアニア共和国、ロシア・ツァーリ国と争い、リガなどバルト海沿岸を征服支配、バルト帝国を確立した。ポーランド(ポーランド・リトアニア共和国)の戦乱につけこんでスウェーデン軍を上陸させ国内各地を荒らしまわったが、オスマン・トルコ対策を一段落させて南方から戻ってきたポーランドの名将スタニスワフ・コニェツポルスキに撃退された。その後、1618年に始まる30年戦争には1630年にプロテスタント側に味方し介入。ポンメルンからバイエルンまで破竹の進撃をしたがリュッツェンの戦いで戦死した。国王の戦死を受けて宰相ウクセンシェルナはハイルブロン同盟の結成など画策しつつ戦争を続行し、中央ヨーロッパに進出、1648年のヴェストファーレン条約ではスウェーデンは戦勝国となった。しかしグスタフ2世アドルフの後継者クリスティーナは、この条約で要求の半分の賠償金、西ポンメルンの獲得など大幅な譲歩をした。
クリスティーナは政治より学問に関心があり、デカルトなどを宮廷に呼んで哲学的思惟に耽ったりした。そして財政危機などを招いて退位し、ローマで余生を過ごした。クリスティーナの退位によって、プファルツ選帝侯家の傍系プファルツ=クレーブルク家が王位に即いた。クリスティーナの女系の従兄である初代国王カール10世は、1655年からポーランド、デンマークと戦争を起こし1661年まで続いた(北方戦争)。この時代が、スウェーデンの絶頂期とも言われている。その後、カール11世が1680年に土地改革を行って自作農を増やしたり、国力の増強に努めた。この時代、プロイセンの勃興やデンマークの復讐戦などに手を焼いたものの、バルト帝国は維持され、絶対王政が開始された。しかしスウェーデンの国力は大陸国家の範疇を出ず、植民地帝国の形成にまでは至らなかった。
1697年にカール12世が即位すると、バルト海の出口を求めるロシアのピョートル1世、デンマーク・ポーランド連合軍と1700年に始まる大北方戦争を戦った。スウェーデンはナルヴァの戦いに勝利し、カール12世は「北方のアレクサンドロス」の異名をとった。スウェーデンは一時ポーランドを傀儡国家にすることに成功するが、1709年にポルタヴァの戦いで敗北すると、カール12世はオスマン帝国に落ち延びた。劣勢は覆せず、1718年にカール12世は急死した。その妹ウルリカ・エレオノーラが即位するが、戦況はスウェーデンに不利に転じ、1721年のニスタット条約でリヴォニア、エストニア、カレリアなどバルト海沿岸の覇権を喪失した。
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